Jの悲劇
2006年08月12日(土) [ こだわり ]
私が浪人をしている頃のことだから、考えてみればずいぶん昔のことである。実際あれから6年も経つのだ。その頃私は毎日のように横浜の東口にある予備校に通っていて、時間になると近くの待ち合わせ場所でJと逢っていた。
二時限目と三時限目の間が昼休みにあたるので、二時限目の講義が終わると次の教室に鞄をおいて、とりあえず私はJのところへ急ぐのである。そうしてからでないと、安心してJに逢いに行けなかったのは浪人生の性であろうか。とにかくJを心のよりどころとしていた私にとって、Jと過ごしていられるこのひとときは楽しく待ち遠しい時間であった。
たまの休日に友人達と会った時などでも、あの頃の私の横には常にJがいたような気がする。Jは私の生活の隅々にまで染みわたり、私は私で心の中ではいつもJを欲していた。
しかし、私たちの仲はそう長くは続かなかった。
私がなんとか夜間の大学に滑りこみ、横浜へ通うことがなくなった頃から、Jは私の傍から、いやこの世から消え始めたのである。あっという間の出来事であった。気がついた時にはもう私の目の届く場所にJはいなかった。
あれからどれほどの時が過ぎただろう。信じていたJがいなくなり、常に私を支えていてくれたJをなくした私は、カサカサに干涸びて今にも崩れそうな脱殻のようになっていた。
大学3年になる春休みのことだった。昼間部へ転部することが決まっていた私は、冷たい春の風に誘われるがまま、それまでの生活と訣別するようにある小さな島へ辿り着いていた。
静かな町であった。船着場近くでは渡し船と造船工場の作業の音がしていたが、少し歩くとそれすら聞こえてこなかった。漁船だろうか、小型の船が行き交う運河のような小さな川沿いを、私は島の奥へと入っていった。
広い道路を避け、住居や畑ばかりの落ち着いた中を歩いていると、対岸まで二、三十メートルはあろうかという溜め池があった。ふと私は、溜め池の横の小高い丘に登ってみたい衝動に駆られた。神社の鳥居の脇にある細いけもの道を登ると、天辺には一面に畑が広がり、私は少しがっかりした気持ちを抑えきれなかった。別に花畑や公園があることを期待していたわけではないが、ただ何となく物足りなさを感じていた。しかしそこからの眺めは悪いものではなかった。穏やかな波が無数の島々を囲み、あたかも風景画を見ているようで、時が止まってしまったかのように感じられた。
丘の上から足元の方を見下ろすと、そこには小さな砂浜が広がっていた。
私は丘を下り砂浜へ向かった。木々に日を遮られ先の見えない曲がり角を抜けると、静かな波の音が聞こえてきた。私は錆びた手摺りのついた六、七段の階段を降りると、砂を踏みしめる時のキュッという懐かしい感触を確かめながら辺りを見回した。靴の中に砂が入りこんでくるのを少し気にしながら座る場所を探していると、腹を見せて横たわっているボートを見つけ、私はその上に腰掛けてしばらくの間海を眺めていた。
午後になって日が照り出したのか、ここまで歩いてきて疲れていたのか、私は喉を潤そうとさっきの階段を上り、砂浜の前にある古びた商店へ近づいていった。とその時、私ははっとなって一瞬目を疑った。店の日除けの下にJがいたのである。Jは私の顔を見て笑った。まるで、私がここに来ることを知っていたかのように笑った。あの頃と変わらないJの姿に不意を衝かれたじろいでいた私には、ただ微笑み返すしか為す術がなかった。
私はJのいなかった孤独な日々を想い出した。Jのいないつらく淋しい失われた時間は、私とJの間を荒れ狂う河のように流れていった。
私とJは、離れていた距離も過ぎ去った時間も、互いの思いで秤に掛けるようなことはしなかった。Jにも私にもなくしたものを取り戻すことはできないが、Jのいる今の生活が私にとってかけがえのないものであることは確かだった。冷たく、しかし潮の香りが混じりあった穏やかな海からの風は、いつまでもJと私を優しく包みこんでいた。
二時限目と三時限目の間が昼休みにあたるので、二時限目の講義が終わると次の教室に鞄をおいて、とりあえず私はJのところへ急ぐのである。そうしてからでないと、安心してJに逢いに行けなかったのは浪人生の性であろうか。とにかくJを心のよりどころとしていた私にとって、Jと過ごしていられるこのひとときは楽しく待ち遠しい時間であった。
たまの休日に友人達と会った時などでも、あの頃の私の横には常にJがいたような気がする。Jは私の生活の隅々にまで染みわたり、私は私で心の中ではいつもJを欲していた。
しかし、私たちの仲はそう長くは続かなかった。
私がなんとか夜間の大学に滑りこみ、横浜へ通うことがなくなった頃から、Jは私の傍から、いやこの世から消え始めたのである。あっという間の出来事であった。気がついた時にはもう私の目の届く場所にJはいなかった。
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あれからどれほどの時が過ぎただろう。信じていたJがいなくなり、常に私を支えていてくれたJをなくした私は、カサカサに干涸びて今にも崩れそうな脱殻のようになっていた。
大学3年になる春休みのことだった。昼間部へ転部することが決まっていた私は、冷たい春の風に誘われるがまま、それまでの生活と訣別するようにある小さな島へ辿り着いていた。
静かな町であった。船着場近くでは渡し船と造船工場の作業の音がしていたが、少し歩くとそれすら聞こえてこなかった。漁船だろうか、小型の船が行き交う運河のような小さな川沿いを、私は島の奥へと入っていった。
広い道路を避け、住居や畑ばかりの落ち着いた中を歩いていると、対岸まで二、三十メートルはあろうかという溜め池があった。ふと私は、溜め池の横の小高い丘に登ってみたい衝動に駆られた。神社の鳥居の脇にある細いけもの道を登ると、天辺には一面に畑が広がり、私は少しがっかりした気持ちを抑えきれなかった。別に花畑や公園があることを期待していたわけではないが、ただ何となく物足りなさを感じていた。しかしそこからの眺めは悪いものではなかった。穏やかな波が無数の島々を囲み、あたかも風景画を見ているようで、時が止まってしまったかのように感じられた。
丘の上から足元の方を見下ろすと、そこには小さな砂浜が広がっていた。
私は丘を下り砂浜へ向かった。木々に日を遮られ先の見えない曲がり角を抜けると、静かな波の音が聞こえてきた。私は錆びた手摺りのついた六、七段の階段を降りると、砂を踏みしめる時のキュッという懐かしい感触を確かめながら辺りを見回した。靴の中に砂が入りこんでくるのを少し気にしながら座る場所を探していると、腹を見せて横たわっているボートを見つけ、私はその上に腰掛けてしばらくの間海を眺めていた。
午後になって日が照り出したのか、ここまで歩いてきて疲れていたのか、私は喉を潤そうとさっきの階段を上り、砂浜の前にある古びた商店へ近づいていった。とその時、私ははっとなって一瞬目を疑った。店の日除けの下にJがいたのである。Jは私の顔を見て笑った。まるで、私がここに来ることを知っていたかのように笑った。あの頃と変わらないJの姿に不意を衝かれたじろいでいた私には、ただ微笑み返すしか為す術がなかった。
私はJのいなかった孤独な日々を想い出した。Jのいないつらく淋しい失われた時間は、私とJの間を荒れ狂う河のように流れていった。
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私とJは、離れていた距離も過ぎ去った時間も、互いの思いで秤に掛けるようなことはしなかった。Jにも私にもなくしたものを取り戻すことはできないが、Jのいる今の生活が私にとってかけがえのないものであることは確かだった。冷たく、しかし潮の香りが混じりあった穏やかな海からの風は、いつまでもJと私を優しく包みこんでいた。
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